メッチャ”好っき”やねン

正しいコーヒー【『自家焙煎珈琲屋バッハ』】



「田口護の珈琲大全」(NHK出版)より

ボクはコーヒーにつきなんにも、云うことがなくなった。
それは今から約30年前、田口さんから怒鳴られてからだった(笑)。

いつでも、黙っていたって信頼してそこに【あるべきものが、あるべき姿でいてくれる】……こんな存在を見付けられたなら、
それを人生でも「至福の時」というのだろう。ボクはこと「コーヒーについて」はそれがあり、幸わせである。
そんな「肉親の情」のような確固としたものを、ここの供するコーヒーに限ってはボクはまるでフヌケ人間のように、全面的に頼り切っており、
おかげで毎日、コーヒーを呑む時間が「至福の時…」なっているのである。

ある時、商店街の海水浴帰り、観光バスに乗っていて、(荒川区)南千住で信号待ちをしたら、その高い窓の視線から
【バカにてきぱきと、キチンとした身なりの店員の動きが良い「喫茶店」が目に飛び込んできた】。
そこは【プロレタリアートの街山谷】。大阪なら釜ヶ崎、横浜なら寿町という通称「ドヤ街」の一角である。
いつも通る道なのにこの店に気付かなかった自分にむしろ驚いた。《視線の高さ》というものは意外な発見をするものだ。

ともあれ、ボクはそうした”店の立地”がとても気に入った。
ここの地にある必然をたしかめたくもありこの【バッハ】に舞い戻ったのがきっかけ。以降、通うようになったまま「現在」に至る。

やはりこの店は礼儀正しく折り目しっかり…していて、カウンターの内側では、オーダーを受けてから豆を挽き、
おもむろに紙フィルターを用意し、熱湯を注ぎ、淹れる。
そうしてその間に、コンビの一方は、「洗った」だけでなく柔らかい布で「拭いた」らしいグラスに適度な氷を入れて、
またこれが素直に”磨かれた味の水”で、それがテーブルに運ばれてきて《「本隊」の到着》を待つ。
ちょうど【茶道】というものの標榜が世に許されているならば、ここには《珈琲道》というものが確実にあった。

通うようになってほぼ30年にもなる。毎日朝の「日課のコーヒー」もここの豆を挽いていただく。
19歳の時のイチローが我が家を訪れた際も、「浅草ビューホテル」に迎えに行ったその足で、ここで豆を買いケーキを買って、
ウチの店先で一緒にバッハのコンプリートセットを愉しんだものだった。

仕事で知り合った方々に、自ら《コーヒー通》を名乗るムキがおられる。
ボクはバッハを知っている者としての矜持が勝手にあって、こうした”通”にお出しするのも悦びとしている。
だが、こうした方々に限って(あえて?)「おいしかった」との感想はどうもお義理程度にする習慣でもあるようだ。

ここのものほどボクはおいしいと思ってコーヒーを口にすることはない。
また、したこともない。

おそらくコーヒー党という人種は、《1人1党》みたいなものに自らを囲い込み、それまでずっと呑んできた味覚の「習慣性」によって、
舌の感覚が極度に排他的になってしまうのではないか……?との【前野理論(またかよ)】を立てるようになった。

いや、これでもボクにはめずらしく、「相手を尊重して」(?)いるようなのだ。
ということは、それだけ本能的にこの【バッハの味の前に敵を作らせたくない】という”自己防衛本能”なのだろう。
こんな高等な戦術をいつの間にか形成して実行してきているのだからボクもずいぶんと大人になったものである(笑)。

ボクも日本全国あらゆる《うまいコーヒー》は呑んできた。
”ぶっちゃけ”ここのコーヒーが一番うまいと云わなかったヤツなど「味のわからんヤツ」だと内心断じている。
『(気の毒なヤツだ、味もワカらないとは…)』そう心底憐れんでもいるので、心当たりのあるボクの友人知己
に於かれては心配なされたい(笑)。

そのうち、コーヒーについて気がついたことがあった。
それは《おいしいコーヒーづくりは【豆を棄てる】こと》なのである……という「絶対原則」だった。


”棄てるべき豆”の数々。上段左から 腐った豆 乾燥不良異常交配豆など、カビ、死豆、虫食い豆、発酵豆、中には上段右端のように「石」まで混入する(上同書より)

「ハンドッピック」という作業が「味」を決める

工事中

今でこそ、増築して階上に移って行ったが、ここのカウンターに坐っていると、かつてはその端っこが「店員の指定席」だった。

アルミ製の大きなトレーを拡げて、必ず店員が一人「洗面器一杯」ほどの「コーヒー豆の山」と相対しているのに出会うのである。それも誰がやっていても、「背筋を伸ばし真剣そのもの」なので、単純な作業ではなさそうなことに気が付いた。

彼らはその豆の山から、次ぎ次ぎと容疑者らの一群を平らにならべ、指先でポツンポツンとつまみ上げ別の山へと選り分ける。

そんな細かいけれども単純?な作業をひたすらやっているのだが、「坐っていて良い」んだし、一見ラクそうでボクなんか真っ先に名乗り出たい役割なのだけれども、店員らの様子はそうでもない。
 彼らの視線からはどうやらその「つまみ出し係」は、店でもかなり大事そうな使命を帯びているように思えるのだった。

ここの「常連志望」がビギナーの頃にはボクのように【それナニやってるんですか?】と訊くものらしく、いつだって、選別し終えて、【予選落ち】となった「落伍組」のコーヒー豆が”説明用”に置いてあった。

このバッハでは、オーナーの田口さんが世界のコーヒー豆原産国を自分の足で回り、豆を輸入してくる。

ナマの豆=生豆(キマメ)を輸入してきて、焙煎し、普段ボクらが目にすることができる「こげ茶色」のコーヒー豆に仕上げる。
その行程の中でまず「生豆の段階」で上記のような原始的な《ハンドピック》作業が一回、
 さらに「煎ってから」もう一度《ハンドピック》を行う。

早い話、《ハンドピック》とはひどく差別的な作業なのである、田口さんらしくもない(笑)。
というのも、上記の写真のように様ざまな豆(や木の枝、石時にはガラス片まで)が生産国から送られてくる。

これはボクのところもそうだが、輸入の仕事をしたことがあれば誰でも理解してもらえるけれども、アメリカのような相手国でさえ《信じられないほどアバウト》である。
とんでもない勘違いの品が混じってくることに驚いていては輸入業などしてはならない。
コーヒー豆など、生豆のままでは判らないような虫の出入りした穴だとか(笑)、熱を加えると身をよじったりするような発育不良な豆だとかその他ありとあらゆる《悪い豆》が一緒くたでおなじみのデカい麻袋に納められて届くのである。

《ハンドピック》作業によって、100%の豆がさばかれ、もう一度で(計「200%」?)人間の目によって判別される。
すると、赤道直下の国からやって来たモカ・マタリなどは【40%】も脱落させられ廃棄される運命だ。
 つまり、この「バッハ流」では100輸入しても「6割」しか商売にならない、そんなワリに合わない道徳観をもって【4割の利益をあえて棄てながら】商売をしているのである。

それをもしケチることで、どう人間の舌は味を判別できるのかというと、【うまい】ジャンルから【マズイ】味へと落ちるのは当然だけれども、バカに苦かったり、コーヒー豆本来の酸味ではなくケミカルっぽい「酸っぱさ」が伴ったり…、塩素の臭みのような味さえ伴うケースまである。

虫に食われていたっていいじゃないか。
ボクは一度、カウンター内の田口さんに『もったいないから、棄てるヤツを下さい』と、ワリと本気モードで云ったことがある。
すると田口さんは、さもいまいましそうに
『そんなものは口にするもんじゃない。それはもうコーヒーじゃないんだ。』と強い調子でキメ付けた。

判りやすく”少し誇張して”云う。
もし、コーヒーカップに必要な分量の豆を10粒としよう。
その中に『虫が食って穴の空いた豆』が1粒混じっていたとすると、それだけでコーヒーの味は苦く、煎った本来の香ばしさに炭化したようなコゲ味が混じり、煎り手の計算が台無しになるのである。
少なからず《田口さんテキ》にはNGなのである。

つまりイメージして欲しいのは、その虫一匹が豆の中を喰って「すっかり空っぽ」にして飛んでいくのは自由なのだけれど、その「空っぽの豆」と、「中味の入った豆」を煎る際に、同じ分量の熱を加えたらどうなるのか…………。
「豆の中味ごと煎る」熱量でコーヒーの味がおいし〜い!と云ってもらえるようボイラーを加減するのだから、同じ熱量で「空っぽの豆」を煎ったとしたら、それは”煎る”でなく【おコゲ】となってしまうのは自明の理である。

それを「合格組」と一緒くたに混ぜて、一杯のコーヒーを淹れてしまったら、当然おコゲの味が邪魔をする事になる。だから【おいしくない】ということだ。

そのコーヒーにまつわる「新しい倫理」について、ボクがフリーのライターをしている頃、仲の良い編集者の管轄で今のグルメブームを起こした原動力となったあるマンガがあった。
この編集部全体は常にこのマンガのネタとなる話を探しており、見付けてはマンガの「原作者」の方にデータ(ネタ)を回し、人気の下支えをしていたワケで、ボクなどは生来マンガ的人間だから、かつて【アストロ球団】や【亀有公園前……】ではネタを編集者に提供し、それを作者へのアドバイスにしてもらうといったアルバイトにもいそしんでいた。
《作画家だけがそれを知らないだけ》なのである。(かつていくつもの「魔球」をあみ出したほどだ! 笑)


《販売自粛している?自販機》
缶コーヒーは、こうしたビベレッジ全体では「お茶」部門に次ぐシェアだというけど、そもそもアレは呑むほどなの?。
(この自販機は本文と無関係です)

このようなバッハの田口さんの流儀を話すと、その編集者は飛びついた。
それはそうである、当時は「サイホンでコーヒーを淹れて出す」だけで専門店として充分だった時代だ。

《1週だけではもったいないので、2・3週続けてやりたい》とまで意気込んでき手ごたえだったのだが、直後、連絡が入った
《あの話はなかったことにしてくれ…》悪いコーヒーでも呑まされたような苦渋の声だった。

ボクからアイディアを聞いた晩、同期入社の広告部員に【コーヒーとはそういうものだそうだ】と話をしたら、真顔になった友人は
『ちょっとその話待っといてくれ』と返してきた。
広告部員は、内々に広告代理店を交えて、そうした『コーヒーの常識を問う』ような展開となっていいかどうか話し合ったところ、スポンサーたる、ある広告主との結論で
『そのコーヒー話はナシということにして欲しい』とのこととなった。

出版社でも放送局でも『編集サイドは 広告部に逆らうことはできない』のが鉄則である。
そのNGのワケが後日、簡単に理解できた。

そのマンガが連載されている週刊誌の「裏表紙全面」に【某缶コーヒー】のカラー広告がどデカくその後何週も続けて居座わっていたからである。

ボクは、今の世の中でしかできないような事ばかり捜し求めて、今享受できるうちにそうした仕事や、芸を堪能したい……と貪欲になっているガメつい人間だ。
だから、時計もクォーツでなく「機械式」がまだ手に入るうちに味わっておきたいわけで、こうした大手企業が手がけるコーヒーの味なんて、「バッハ流のコーヒー」とを比べるべくもない。
それは単に缶コーヒー屋だけでなく、通りがかりの[D]だの外国参入の[S]だののコーヒーなど、早いはなし《色が似ている》だけのこと、どのような人件費をかけようがかの《ハンドピック》がどれほど徹底できようか疑問、というよりカベであろう。

あんな店はそうした色つきのお湯でノドの渇きを止め、タバコの煙にムセに入るだけの価値以外に見付けるものはない。

先出の《酸味》が、DやSそれに「缶入り」から充分に”(イヤというほど)親しむ”ことができるけれども、「酸味が強い」といわれるモカ本来の酸味と、どれだけ質が違うものか、【コーヒー道】に関心があるムキならば、まずもっとも解りやすいとされるこの《「酸味」の違い》についてあちこちのコーヒーを試飲なさることを奨めたい。

ことほどさように、この「ハンドピック」という手作業が大事で、常に厳格であるということが判れば判るほど、反比例的にどんどんとヨソさんではコーヒーなど呑めない体質へとボクは”改善”されてしまったいった。
この「できるだけ余計な味を拝し、”豆本来の味”を尊重するために、こそぎ落とす」という考えは、まさしく清酒で云う【大吟醸】の製法と似ているのではないか(大吟醸の中には米一粒の外回りを65%も磨いて落としてしまうものさえある)。

利益率を落としてまでも、美味であることを追求する……。
それを買っていただく…こちらもゼイタクである。
でもこのていどのゼイタクができなくなったら、ボクは(残った別の)酒にもコーヒーにも未練はない。

「利益は確保したい」……当然である。だから田口さんは原産国に行き直接そこから買い付けて輸入にまつわる中間業者を排し、ゼイタクに棄てる分を補てんするという発想に出たわけなのだろう。
そのぶんを、《足で稼いで元を取る》というしたたかな発想がいい。

面白いのはコーヒー産出国というものには年がら年中権力闘争が起きていて、体制政権が180度変わったりまた360度回転して元の木阿弥…なんてことはめずらしくない。

で、「コーヒー栽培に従事する労働者を増やせば」国民全体も裕福になる…とか、「おいしいコーヒー実のなるの栽培法」などまでアドバイスしてくれるため、政権側もまたゲリラ側も(笑)”オイシイ田口さん”に頼るところが大きいワケである。
そのため、日本国外務省でもコネがなく頭かかえていても、田口さんは【顔パス】同然で政情不安な国も「ひとっ飛び」どころか、ある時は【出来たての新政権に】挨拶してくれと、田口さんに外務省のメッセージが託されたこともあったほど…と笑う。


【バッハ】本店ph.3875-2669
http://www.bach-kaffee.co.jp/
金休み

その田口さんに怒鳴られたことがある。
それは、近所のグラウンドで野球をした帰り、球友と一杯戴いている時のこと。
かつてのボクの職場「週刊ポスト」での先輩取材記者がアフリカで、人肉を好むハエにウンザリしたエピソードを開陳していた時だった。

『タマゴを産み付けられた太ももが熱を帯びて、腫れ物がそのうちどんどんとふくらんで「大きなソフトボール」大になり、自称”部落の医者”というのに相談したら、ベッドに腰掛けさせられ、太ももの下にバケツを置かれ首かしげていると、患部をメスで切り開いたと思ったら内側からド〜〜ッと、「血ウミ」に混じって白いツブのような「ウジ虫」がバケツにドサドサとおっこちたんだそうだ。』

(友)『うぇ〜〜サイアク〜。イヤだなアフリカなんてオレ絶対行かない』
と……ここで田口さんがいきなりボクら二人の会話に乱入してきたのだった。

田【あんたね、そんなこと云うもんじゃない。ハエだって生きているんだ。そこへ勝手に入っていった人間の方が”あと”なんだから、遅れて入ってきて何があろうが文句など云っちゃいけないんだ。「ふざけんな」と僕ならそんな人間に云いたいね】であった。

こんな田口さんを、「何を大げさな」と笑うのは自由であろう。
世には、こうした「自然への原則論」を建て前で述べる人種ばかりが多くなった。
だけど、生きざまの「端のハシまで」、スジをコレモンで通すということには、あらゆる角度からの困難性が襲いかかってくる。

田口さんの出身は北海道、親の代からの「ボイラー屋」を手伝って現在がある。
北海道の酪農家にとって冬場、ボイラーによる温度の確保は生命線を守るに等しい。
凍らせてはならないミルク、逆に温めすぎても味を落とす。
ここの【火加減】で、氏は【煎り加減】を妙を得たとボクは観ている。

ついでに云うと、その酪農農家とのつながりから、このバッハで使う【クリーム】ある。
この選定には「極」がついて然るべきだ。

料理のプロにとって、『美味いクリームを仕入れられる相手先』というものはトップシークレットである。
仮に《XXのはいいよ》と耳にしたならそれは《たいしたことはないクリームである》逆の証明だ、シロウトが聞こえてしまう方がおかしいからである。
「コーヒー」をこの店でお願いすると、懐かしいミニジャグ型のガラス製容器が添えられて出てくる。
【正しいコーヒーに、正しいクリーム】このコンビはどこにもマネができない芸当ではないか。

ボクは幼稚園の頃から(生家の隣りが喫茶店だったため)コーヒーはブラックとして生きてきたけれど、このクリームは素晴らしい。
バッハでも当然ブラックでいただくが、最初にちょっとだけイタズラじみた悪行儀を愉しむ……それはスプーン内に、わずかだけコーヒーを入れてこのクリームをたらし、その作業を何度も繰り返して【コーヒーにはミルク入れなきゃ党】の立場を理解する(笑)ように味を愉しみ、彼らなりの「味」のありかを探っているのだ。それをさせるのもこのクリームの素晴らしさにある。

今どきの「コーヒー用クリーム」を手にとって眺めてみると、そのほぼすべてが【植物性油】である。

なんのことはない
《サラダ油に合成ミルク味を加えて誤魔化した》ものをボクらはコーヒーにたらして、ウマいだのマズいだの抜かしているわけである。まったく愚かなことだ。

何も云う言葉はない、付け加えるだけヤボである。
近年ここのママさん=田口さんの奥様が、このクリームを使ってケーキを創って店で出している。
これがまた絶品。
ケーキ生地を焼いても、粉に混ぜるバターもそのクリームから生まれるものなのだからまずかろうワケがないのである。

ちなみに触れれば「クリーム」というとこの下町では、浅草のフランス料理屋《大宮》さんの定評が群を抜いている。
ボクはシェフ大宮さんの手になるディッシュの中で、特に(サワー…もふくめ)クリームを使った料理が秀逸なので、文字通り舌を巻いており、他の店ではいっさい頼まない「クリームを加えたフレンチ」を注文させてもらう(だからデザートもいい!)ほどだ。

その大宮さんが、ランチとディナーの間にそっとこの「バッハ」にやってきてはコーヒーをすすり、あのご自慢のひげを上下させながら、店内で奥さんの作る【シュークリーム】をほお張っているのを何度も目にている。

バッハのシュークリームは野暮なことは訊かないが、どうしたことか【クリームの都合で冬場しか作れない】逸品である。
ヴァニラの細かい粒がクリームの中に点在し、タマゴもまたナンなのだろう…カスタードの極がここにある。
まあ、あれほどふくよかに美味を愉しめるケーキもない。

【シュー】と【中味のクリーム】といったシンプルな構成だけに、この口の中で延々と続く旨さとはナンなのだろう。

『あのシュークリームにはただ頭が下がるばかり』と、大宮氏とこの一個について語り始めたとたんに『ウマいっすよね〜』のデュオとなり二人して眉毛を下げた想い出もある(笑)。

ともあれボクにとって、ここのコーヒーと出逢ったことは人生の中で「相当にトクをした」と思っている。
口にすると保証される安堵感、《もっと旨いコーヒーはないか》と探す気遣いなどとは無縁でいられること。
この事だけでもどれだけ時間がトクしていることだろうか。

それとボクが気に入っていることがもうひとつある。

あまり知られていないことだが、田口さん夫妻のコーヒーとケーキがかつての《沖縄サミット》での晩餐会抜擢され、”コーヒー嫌いのクリントン”やはじめ、各国首脳にまで口にさせてしまった…という「勲章」がある。
そしてまた、”そもそものこの《立地=「山谷」》”のような街の労働者にこそ呑んでもらいたいという、真の意味でのグローバルな視点がもたらす田口護の信念という長年にわたる「勲章」。

この店の素晴らしいところはその二つの勲章が、いつでも《同列に》置かれている……ということなのである。

 そうした意味でボクは「バッハ」を、今どき《痛快至極》とあおぎ見てやまない所以なのである。



まるで宣伝みたいだが、プロの《珈琲屋》目指すならこれはバイブルなるはずの本


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