メッチャ”好っき”やねン

 

究極の慇懃無礼、サイテー某串揚げ屋”迷店”(大阪)


第3回 千住大橋 足立市場入り口(「武寿司」)を紹介」…の前に
【マスコミで取り上げられた有名店の:どうしようもない裏オモテ】を厳しく糾しておきたい。

 ボクはいくら良い店でも“混んでいる店”に興味はない。
 そうした店のヒマな時間を見つけて通うのもいい……が、たいがいが『せっかくヒト息つ
ける……』ようになった店の人たちにボクはすまない気がしてそれも好きではない。
 むしろ、繁盛している店なら珍しくもないし、それなら先に足を運ぶべき候補は幸せなこ
とにストック分はいくらでもある。

 ひと昔前のプロ野球がそうだった。巨人をはじめセの六球団に加え、西武ライオンズが
“成り上がり”のクセに、所属選手たちの態度がどこか《客に観せてやる》といった風であった。
それに対し、逆にそれ以外のパリーグ五球団の選手らにはグラウンド内で取材していても、彼ら
のスタンドに時折運ぶ視線が、どこか客の入りを心配している部分があり、『お客さんに
“観てもらう”』といった謙虚さがあった。
 (昨今ではそれも薄れたと思う。)
 それと同じように、食べ物の提供側に回れば、居並ぶ満員の客を右から左に扱うのに、
そうそう人間扱いできるものではないし、こちら側もたいそうなダンナ面を期待すべきでは
ないし、しない。

“混んでいる”店が、回転率を気にするようになるとロクなことはない。
 客をダンナどころか、人間扱いさえすることを忘れ始めてしまうものである。

 つい最近味わった“有名店”での最悪の体験を披露しよう。
 大阪の黒門市場近くで盛業中の『ワインと串揚げの店《六XX》』に通ううち、その隆盛と、”客扱いの堕落”ぶりを”またたく間”に、「起承転結」の最期まで演じてくれたことがあった(笑)。
 そして愛想が尽きた当方は軽蔑の限り、もう二度とここへは通わない。


 客扱いにおいて、そこの主人は
『けして私ら店の者は、座ったお客様の肩から上に手をげない』とのモットーを、TV番組《愛の貧乏脱出大作戦》で言ってのけ、それを“達人”の言葉として伝授していたものだ(笑)。

 ところがテレビでカリスマ度を宣伝したのに成功したとみた(?)昨今、客席間で名刺の交換が目立つ客筋ともなってくる。手狭になって「倉庫まで改造し客席を増やし」始めてしまうのである。
 ここらでどうやら回転率アップを“謀ろう”と画策始めたらしい。”初心”などどこへいったものか。
 だがそれも結構!《商売繁盛》は歓迎してやまない。

 ところがそのうち、ここの形式であるコースをひと通り食べ終え、客に未だ大きなグラスにワインが残っていても知ったことか、急き立てるように“外”が「追加注文など訊ねちゃおう作戦」を開始!させる……のである。
 新しい”接客術(?)”のつもりか『もっと何かいかがですか』とのお誘いは遠慮がない。
 客同士の会話中にもおかまいなく、背後から会話の流れなど気にするでもなく、容赦なく突き刺すようになった。

 哀しいかな、オーナー氏の「人心掌握術」は底がどうも浅いらしく(笑)、”良心的”に見せることにかけては長けているかもしれないが、観られてしまう…との突っ込みには弱い。

 これでは丸裸である。間違いなく「(旨いものは出すが)銭ゲバ経営者」へと”転じた”今ではまるっきりの演技はド素人へと堕している、早い話、ミエミエとなってしまっているのだ。
 それにしてもボクは人を弁護(?)するのが巧い(笑)。

“肩より上に上がった手”よりも、はるかに客席にとってこの稚拙な遠慮会釈わきまえぬ「早く帰れ」攻撃は、卑しくも失礼、かつ暴力行為…そのものである。
 ちなみに、ボクの経済感覚とは、《ケチ》とまったく縁がない。
 食べ物屋諸氏に言わせればボクは確実にそこの店の平均客単価を下回ることだけはないだろう。
 贅沢はいけないけれど、カネはなくとも食い物だけはリッチに…をモットーにしている。


 こうして堪えて(?)きたけれど、先日の訪問で仰天の事態が……。
 これが、ボクにとって、こことは”最期の機会”となった。

 いかなる世界各国の料理屋で、自席に置いたバッグを”店の者が持ち去る……”といったマナーがあるのだろうか。
 《盗んだ》でないにせよ、そんな蛮行をまかり通らせて、「客の肩より手を上に上げる」?「上げない」など、チャンチャラおかしい偽善ではないか。

 その日、「順番待ち客」を背後に、気にかけていたボクは、通常のひとり分の早さで《2人分の》ワインとコース料理を全うして、売り上げを作った。
 これも客の側からの「心意気」だと思っている。
 よく繁盛店や、寿司屋などのカウンターで飲食そっちのけで「注文二の次で」お喋りに興じている者がいるが、ああした客は「客ではなく」、ヒトでもない(笑)ただのバカである。

 カウンターの客は、その店の花形選手。頑張って売上げを作らねばならない。

『お勘定を』と言う前に、ボクは全財産の詰まったポーチを自席カウンター上に置き、“退出前の仕上げ”に、さっとトイレに立った。
    ところが、
 ……二分以内で戻ってみると、ボクのバッグが消え失せていた。

 そして、ボクの席にはすでに見知らぬ男女が座り、いつの間にかカウンターは埋まっていた。
 そしてボクの全財産は、(その男女が直前まで腰掛けていた)”離れた誰もいない「客待ち席」”にポツンと強制連行されていたのである。

 鮮やかな“犯行”である。

この《ローマの街中まがい》のご立派な“接客”は、他でもない「インギンのみ一人前」であるオーナー夫人の所業だった。
 にこやかに曰く、『お帰りでいらっしゃいますか』……。

 この笑顔もインギンな丁寧語もナニにしろ、たった「二分待つ」……これだけの辛抱で済むというのに、この店の「金銭感覚」は《素っ裸ヌードショウ》のご開帳となってしまったのである。

 これは【大阪人が悪い】などと云っているのでは決してない、関東人は間違えないように。
   (ある意味では大阪人のほうが「江戸っ子」より気前が良いとボクは思っている)
 これはこの経営者夫婦という”個体”の人間性が悪いのである(笑)、ただそれだけだ。

 重ねて云うが、ボクは似たもの同士=商人の立場はよくわきまえ、常に”損にならぬよう”な配慮を、同じ土俵にのぼってゆき、「他の客優先」とまで配慮しているつもりだ。

 あんな《どこぞの神様?》かとまごう様な、立派な接客哲学をたれ、客への応答に《禅の坊主》よろしくもっともらしい合掌をし“感謝”の印をきる姿など…今となっては哀れ、かつ、ちゃんちゃらおかしいサル真似と映ってしまう。
 さしずめここは「お寺さんごっこ」をする場所なのだろう?

 レジで勘定を済ませている間も大声を上げたかった。
 だが、満員の客が楽しくさんざめくのを前に、こんな”異常”など聴かせられない。
 偽善者どもとはいえ、連中の顔もつぶすわけには行かない。

 きっとボクという客が嫌いで、特別に排除したかっただけなのだろう……。
 そう合理化して呑み込む事にした。

 黙ってこの合掌を背に店を出たが、はらわたは煮えくり返って始末に終えない。
 
 とりあえず我慢をして、当方の身体の内側に残ること、それは
 『ここの主人は、間違いなくこの「盗っ人女房(笑)」に、何も云えぬようなデレ助か、または「夫婦して共同正犯」の、よほど名の知れたウソつきには違いない。』

 他の客商売の諸兄にも訊きたい…。
 ボクの退出を早め、わずか”2分ぶんで得られる売上げ”など、一体いかほどのものなのか?
 目の色を変えるほどの”変化”が、たった2分で客商売では期待できるのだろうか。

 ”数円が欲しい”…その小さな欲が、連中が身にまとった「善人の仮装」を、素っ裸にしてしまうのはとても残酷でドラスティックなことだ。
 じつに情けない、禅坊主を気取る作務衣などという、「心にもない」詐欺師好みの変装姿がくっきりとシニカルでおかしい。

 この”素っ裸ショウ”(笑)からはじき出される回答とはこんなものだろう。
 客商売というものに、こんな《ミミッチさ》がしゃしゃり出てきたらお終いである。
 「通いながら多くを学べる店なのか」、それとも「俗世間のイヤシさを思い知る店」なのか、いずれにせよ同じである事といったら、【有料】である…ことにはかわりはない。
 ならば、後者の見せがどれほどの評判があろうともどれほどの価値も、飾るべき見栄もボクには眼中にはない。

 後日談だが、この同じ頃に同店の常連=あの現田中康夫知事から(何があったのか)「三行半」を表明され、一方的に訣別されてしまっていたそうである。やっぱり…なあ。

 さて、本題に戻るが京成線「千住大橋」駅の足元に拡がる

「足立市場正面入り口」右側にある、
【武寿司】を勝手に褒める

 この店は、思わぬ魚の味わい、酒の味を堪能させてくれる勉強の行き届いた名店である。

 ここの場合、仕入れ関係者や(市場)場内関係者らの朝・昼食で午前中は忙しいけれど、「昼過ぎから閉店の三時頃」までは比較的ヒマで、板さんの手が楽になる時間帯となり、店とボクにとって好都合な対面商売を愉しめる空間となる。

京成線「千住大橋」南側下車3分

 夏場などスダレ越しに、喧騒の静まりかえった市場を通り抜けて来る冷えた風に、「ああ、いい気
持ち……」と目を細めながら粒粒のはっきりしたシャリを噛みしめると甘い、それに米本来の豊かな味が続く。

 最近の小ざかしい板前のよくするような、ツケ醤油に[旨み調味料]など混ぜ入れるペテンに頼った、脚色された味などではない。
 米の味などには普段執着しない当方なのだが、ここのメシには一目置く。

 大ぶりの米の選び方の良さ、控えめな酢・砂糖・塩。ン?! ちょっとお酒を隠し入れていないかな? それもこれも、この米に自信があり米の味そのものを引き立てるための配合に違いないのだろう。

 ここではもっぱら酒は大吟醸にしたい。
 なぜなら香りは残っても、口に[“味”を残さず]濯(すす)ぎさっぱりさせる、大吟醸特有のキレに任せた方がいい、とボクは思う。

 つまり、云い方は悪いけど《有機溶剤》のように大吟醸のキレの鋭さを利用して、次なる珍味に備えこの至福の味楽しみながらお清めができる……といった贅沢な寸法を愉しむ。
 こちらの顔色を観察した上で、いつも当方が注文する展開に適した酒の銘柄を冷温庫からワシづかみ、カウンター越しに身を乗り出して一升瓶から注いでくれるのである。

《トトトト・・・・》この儀式で水位があがるグラスを見ながら『さあ、呑むぞ……』とボクは内心決意を固めるのである。


若旦那、塚越さんが”足で”蔵元からgetしてくる酒には無批判で美味しいと感動。毎日変わるお勧めで外したことがない


 ここ武寿司は市場にありながら、先代当時には少なかった「場内の仲買い業者」を”客”として獲得するようになった。今は客の9割方が”内部の”市場関係者だ。
 築地の寿司屋のように、市場関係者”以外”のシロウト客に依存する商売とはまったく異質のものだ。
 (シロウトが入らなかったら多くの築地場外にある寿司屋は明日から廃業となるだろう。)

 仮に「仕入れでやって来た関係者ら」に(築地のように)ああしたバブリーなネタやお値段を請求するとしたら…コレはずい分と異常な景色ではないのだろうか。
 むしろ自分の商売で客に売って稼ぐのはお前らだろう…と突っ込みたいのはボクだけか。

 この点の違いはたいへんに大きい。
 【武寿司】の客は、ほとんどが市場関係者や仕入れにやって来た業者で占められる。

 若い頃にカメラマンをやっていたマスターの塚越さんは、一時期は先代と共に板場に立っていたが、いつ頃からだったろうか、カメラマンが写真一枚のフレームその《四隅を埋めつくし完成させていく才能》を、この分野にもシンクロさせられるよう、氏のチャンネルが切り替わった時期があった。

 多分この時「頭の中で電球が灯った」のだろう。

 以来、海のあらゆる味、足で稼いだ地方の酒を医者に叱られながら、ボクらの口に届けてくれるようになった。

 板前の意地で、高いけれども得がたいネタを仕入れては無駄にして……という、“ジャブ”の繰り返しをしているうち、それを理解できる客、というより「支持者」がこの店に次第に居着き、仕入れの腰が据わってくる……すると、さらに自信が裏付けとなり、次ぎなるとっておきネタへの挑戦と、《寿司の名店へのサイクル》循環が始まっているのである。


ご立派!特上にぎり=2700円
ph.03-3879-2830

 見るところ、この人は今、寿司ネタの確保が楽しくて仕方ならないらしく、その様子が常連たちには仲間を見るようで微笑ましく映るようである。
 この店にとってなにより幸いなことにはこのツケ台に、大手の水産会社社員や、場内の仲買いダンナ衆がやってくることである。
『そりゃ、オメエ「○○」なら今日あたりは××産に限るよ』
『今は☆☆の方がいい品(水)揚がっているな』
 この足立市場でもっとも耳寄りな一級品情報が、彼の目の前で交錯する毎日なのである。

 築地市場、場外の寿司屋にも食通が通っていよう。
 だが、

仕入れ原価が『高いイコール、(その時期)美味い』…では、けしてない。
…ここが盲点なのは案外知られていないのか。
 ボクが「築地の各店」に思うのは『ただ、産地が高いだけの仕入れ』でラインアップの顔ぶれを揃えてはいないか……との疑問である。
 初体験ならいいっていうものではなく、観光見物じゃないんだから名産品を識るよりも、ボクは板前さんの選ぶその季節のベストを奨めて貰いたいのである。
@大間産だからといって365日マグロの頂点…ということはなく、XX頃だったら留萌沖のマグロとか、などといった風に水産業者の間での歳時記的な遷り変わりに敏感であることが大切だ。

 だいいち築地各店の弱点は、せっかくの肴に対しパートナーである酒に配慮が欠けている点で、それは決定的である。
『ウチは酒場じゃないから……』当然の言い分だ。
 たしかにボクも平日に休みをとるから、こうして昼間っから呑んでいられるのだけれども、『食堂じゃあるまいし』、”築地組”だって少しは酒の銘柄に心砕いてくれたって、バチは当たるまいに。

 武寿司の《特上にぎり》を手に取っていく…と
★大トロは[目がつぶれそうな]インドマグロの絶品、あらゆるマグロの中での【大トロ勝負】では最高峰 である。本(クロ)マグロも総合点ではトップだが、大トロでは一歩譲る。
 身がクタクタばらけず、口に含めば肝心な美味しい脂にオイリーなくどさはなく、むしろクリーミーで柔らかい。ボクはインドマグロのトロこそ、いかなるマグロに比して「もっとも繊細な旨み」を閉じ込めている逸品であろうと思っている。

 これだけの品(トロ)は、セット(で仕入れなければならない部分)の赤身自体も相当量、”消化できる店”でないと仕入れてもペイできない贅沢品なのである。
 つまり、「赤身が順調に売れてこそ初めてトロが売れる…」という「マグロ一匹分の論理」を、スシ党は知らなくてはならない。
 「1カン=2千円」のお値段とっても、”赤身が消化”できなければ割には合わない計算(仕入原価)となるものなのだ。
 したがって「大トロだけ頼む客は歓迎されない」。
 考えようによっては本来縁遠かった「インドマグロ」の赤身特有の、あのサックリした品のいい味を識っている「赤身マニア」にも、またたまらない店といえる。

 余談だが、「たけし」さんが『ひょうきん族』当時グングン人気を博している頃に、たけしさんのお忍び専門寿司屋が隣駅ボクの町=町屋にあった。
 たけしさんはこの店を、毎晩のように訪れては『大トロ』ばかりをつまんで美味い旨いと、たいそうご機嫌であった。その名声は近所にも響きわたり、評判になった。

 オヤジも当代の人気者のご贔屓には必死で応えたのだが、そのうち仕入れたマグロの
 『トロがさばけても”赤身がさばけない…”でもさらにまた仕入れないと…』いう「症候群」に陥り、ついには≪たけしさんが通い詰めてくれたおかげで店がつぶれた≫というパラドックスによって廃業してしまう…という皮肉な結末まで産んでしまう。
 それほど、マグロの扱い方には”寿司屋の見栄があり”、ソロバンの腕がかかっているのである。

 ただしボクにとって残念なのは、このインドの赤身を使い「(醤油ダレで作る)ヅケ」が(武さんでは)NGであることだ。
 塚越さんの気に入らないのは、インドものではツヤや照りが出ずに(「本マグロ」に比べると)タレが浸み込みすぎてザラリと黒ずんでしまう…からイヤだそうである。
 この人の「醤油使い」は巧みなだけに当方はこの点惜しくてならない。

★生ウニ これは猫の舌状の小さな一枚一枚が、それぞれに別々のあの独特の甘味ととろみを主張するのがいいところ。その”舌”でも「子猫サイズ」のバフンウニ。武さんでは通常北海道産か、この三陸(と鑑た)ものである。
 その下のクラスには「成猫サイズ」の(米西海岸産の)《オーシャン》もの等のムラサキウニが一般的に出まわっているけれど比較的、「大味」であって、この品などの味とは対極に位置する。

★アナゴは江戸前、ただトロけるアナゴを『やわらかあい』というTVのリポーターは舌足らずも甚だしい 。あれはただ“崩れる”だけの腰の弱い品かもしれない、冷凍の品でもそのような出来となる。
 必要なのは”プリプリッ”としたキメの細かい筋肉繊維が新鮮な江戸前や相模湾産の上物になるとそのプリ、が口の動きに合わせてバラけ始めるのである。
 しっかりとした、またサラリとした白身魚のウマ味と共に舌の上を転がるのである。

 ただし、武さんのツメ(醤油甘タレ)の味はもっと不味いアナゴ“でも誤魔化せるほど強めの濃さ”なのは残念でならない。
 (入れている?)「水あめ」がもっと少なめだったらまた変わるだろう。ちょっとコゲ味も欲しい。


酒主体の方はこのボードからおつまみを頼むべし


★本日のおすすめ
 握り手、塚越さんの真骨頂がこのカウンター上にあるホワイトボードに手書きのネタであろう。
『へえ〜っこんな魚、握れるの?』
 普段は煮物でしかお目にかかれない底魚[方々(ホウボウ)]は驚くほどあっさりと、まるでフグのような透明でクセが全くなく、歯を立てればサクサグとしている。

 金目鯛は日本最高の伊豆稲取産が塚越さんのお気に入りでこれが美味い!! 適度な[中トロ程度?]の薄甘いこってり味が口の中にスルリ。あくまで品のよい透明感ある白身で、むしろボクはめだい同様に、世間の大多数がこれを「煮物でしか知らない現実」を本当に気の毒に思う。
 指名の上で「特上……」のラインナップに起用も可。

 やはり醸造系で舌が利くのか、酒好きの塚越さんは酢の加減が酢メシ同様に繊細で巧い。
 だからこそ「コハダ」、梅雨時の「新コ(ハダ)」など、“青魚ファン”には目がつぶれるに違いない。
 「〆サバ」にしろボクはアオザカナ全般に「アウト」なのだけれど、選んでいる魚の個体を鑑れば一目瞭然、絶対にお奨めだ。
 背は透明感がありながら深く濃い蒼、それを縁取る(ふちどる)黒は疑いのない濃さ、白い部分は白磁器のように抜けるようでいてしっかりした輝くような強い白。
 云っておくが間違っても「魚屋」さんには並ばない流通経路でしかお目にかかれぬ「色」なのである。


サッとあぶり、塩と柑橘汁でいただく、「カマス」


★そして、取りい出しましたるはなんと、「カマスにぎり」である。
 武さんでは「幅」が”刺身包丁”サイズのカマス(伊豆網代湾産だろう)を使用して両面を軽くあぶり、遠く塩を散らし仕上げにスダチ汁、これがカマス独特の青い臭みを品良く昇華し、仕上げる任務を果たす。
それに何といってもこのあぶった皮が美味い! ここへ落とした焼き塩と柑橘の酢味に、パリ、とした食感。直後に襲ってくる(大歓迎)ふくよかなシャリの味。
 これらの要素総てが一斉に集まり、協奏曲を口の中で奏でるのである……さあ、あなただったらどうします?

 いい客がいい料理人を育てる……というが、寿司屋の場合はそれは顕著に結びつく。
 先の《マグロ、トロと赤身の両立》論などはその典型だ。 
 つまり活きやネタの良さ=仕入れ(原価)が直接的にクロスしており、逆の論理=「いい客作るいい寿司屋」理論も正解なのだ。

 したがって「粋(いき)ぶっている客」が多いと、結局は「背伸びした寿司屋」しか作らず、仕入れに無駄が出てそのうちつぶれる。
《寿司屋》という商売は”捨てる”ネタの総額で儲けが左右する、いわば「ゴミのマネジメント」でキマる。
つまり、捨てる前の新鮮なうちに客が食ってくれれば良いのだけれど、なかなかそうはいかない。
 どうしても捨てねばならぬ物を客に出してしまいたい…だけどそれはガマンしなくちゃならない…ストイックな姿勢が常に問われる商売だ。

 また「ヨイショの多い客」が多いと「偉そうなだけの寿司屋」を作る。
 また「酔っ払いの客が多い」店は「稼ぎ方が粗い」商いとなってすさみ、どちらも終わって行く末路となる、思い当たるフシもあるのではないか?。

 武寿司の良さは基本的に塚越さんの遠くを見た心意気であり、(原価率の高さという)良心(的)が骨格となっていると思う。
 ボクは「武寿司が『生ゴミ』の量が少なくなる」よう、他人のサイフだけど頑張って欲しいと願う。
 ちなみにボクはこの店でもお勘定の前にトイレに立つが、ポーチを持ち去られたことは未だ一度もない(笑)。

 休業=東京都市場休場日のみ 早朝〜午後三時まで
 呑んで喰って一人5000円ならドンとこい。
 《武寿司》
ph.03−3879−2830